冬の時代を笑いで乗切るために<短編物語>読むだけで税や会計の 生きた知識が不思議に身に付く
<短編物語>第10話 国境を越える若者たち その8
憲治の帰国
悶々とする中、憲治は父の見舞いも兼ねて帰国した。5年ぶりである。
空港でも駅でも街でも、気になったのは殆どの人が怒ったような顔をしていることであった。5年前と違う。特に若い女性の無表情で能面のような相貌は内面の心の冷たさを反映しているかのように見えた。そこには不満と経済的逼迫が透けて見える。貧しさを無表情で覆い隠しているのだ、と憲治は感じた。何故かバッグやリュックには小さい人形などが5つも6つもぶら下がっている。余分なものを嫌う憲治には理解不可能であった。
電車で老女が乗って来ても優先座席の若者はスマホを見るのに熱心で知らんカオである。続いて太った足の悪い年配の男性が乗ってきた。誰も席を譲らない。若者が競って席を譲ろうとするパリの地下鉄と違う。憲治は人々の冷たさに気が滅入った。電車がガタンと揺れたはずみに太った男性はよろめいた。その時、若い茶髪の兄ちゃんが男性に席を譲った。それを見て、憲治は少し救われた気がした。
駅での乗換の際、ドアを通る。フランスでもその前にいたアメリカでも後ろに続く人のためにドアを手で押さえて開けたままにするところ、日本ではそのような配慮はない。
自宅に着く前に「イヤなところに戻って来た」と思った。
自宅には犬と猫がいた。憲治が知らない2匹であったが犬は前から憲治を知っていたかのように尻尾を振って歓迎してくれた。
母が言う「犬も猫もどちらも男の子だよ。お前と次郎の代わりにウチに来たんだ。」猫は初めは警戒していたが、しばらくすると憲治に近寄ってくる。この2匹が病身の夫と心細い日々を過ごす母を支えてくれていたのだ。母はこれまでも一言も日本に帰ってきて欲しいと言ったことはなかった。この2匹に感謝しかない。
明日、病院に行こうと予定したその夜、病院から電話がかかってきた。悪い予感がした。「すぐ来てください!」母と憲治は駅前からタクシーで病院に向かった。多臓器不全で病院に着く前に父は息を引きとっていた。結局、父と話も出来ずじまいであった。
父の死という現実を前にして憲治は葬式の準備をしなくてはならない。税金どころではなかった。すぐ次郎に連絡した。返信があった。「できるだけ早い便で帰る」と。シズラーの親方が、すぐ行って来いと休暇と餞別をくれたそうであった。
3人の話合い
次郎は葬儀が終わってゆっくりする間もなく、パリにもどって行った。それまでの間、3人で密度の濃い話し合いがされた。相続放棄を言う次郎については、次郎に子があれば放棄によって子の相続権まで奪うことになるが(民法939条)、遺産の継承について遺産分割協議で次郎には取得する財産が無いと決めることで放棄と同じ経済効果になる方法を取ることに決めた。取得財産がないから次郎の相続税額の負担額もない。自宅とその土地は母が受継ぐ。少しの金融資産も母が相続し、隣地の雑種地は憲治が取得し物納を検討することにした。税理士から、路線価が上がっているから、物納の収納価額も上がっている、但し、その物件を税務署が受取ってくれるかは、ハードルが高い、と聞いていた。が、相続税申告期限まで10ケ月ある。その間に考慮することで3者は合意した。
ある夜、憲治は母と駅前のイタリア料理店で食事した。若い女性がその店でたくさん働いていた。例外なくキビキビと動き、笑顔でしっかりと目を合わせて注文を聞く。街でスマホを無表情に見る人たちと違う人種のようであった。憲治は気がついた。店の管理者が良く教育しているからだ、と。日本人は組織で動けばチカラを何倍も出す国民性だと知ってはいたがフランス人にはこのような切替はできない。日本人の不思議な一面に気づいた。自分は組織に入らず独自に小規模に徹して事業を運営してきたが自分の中にもこの料理店の経営者やスタッフのような心情が潜在しているかもしれない。そうであるならフランスで苦闘している出版業の展開に、大きなヒントが得られた気がしてきた。
日本の税理士と会う
申告までの10ケ月に決めなければならない点を確認するため憲治は母と共に税理士に会うことにした。次郎の相続放棄のこと、母と憲治に予測される税額のおおよそ、有利な遺産分割の方法などが聞きたい項目である。このたびの父の死でフランスでの居住期間が5年で算定されることが確定した。そのため憲治はフランスの相続税申告の必要が無くなったことは、一区切りついた気持であった。
税理士は初老の平凡・慎重・確実という言葉にぴったりの人物であった。各項目について条文集で確認しながら言葉を選んで口を開く。マスコミで報道されるような異常な節税スキームを考えて依頼者を課税リスクに晒すような姿勢は微塵もない。母と憲治は安心して相続税申告を依頼しようと思った。税理士に伝える諸事項を母とメモして役割分担を決めた。
次回予告
日本の税理士に相続税の厄介事を依頼すると憲治も母も気分が軽くなった。母はこれから犬や猫と父の仏壇を守りながら、ゆっくりした日々を過ごしたいと言う。憲治は自分の事業について思い込みから脱皮でき、違う展開のいとぐちを探そうと思った。勝矢の学ぶ領域にそのヒントがあるように思った。勝矢の指導教授が日本人は捨てることをしないから五里霧中に入ってしまう(その4掲載)との話を記憶している。捨てて捨てて残った中に単純なダイアモンドがひっそりと取上げられるのを待っていることは間違いない。それを探すのだと決心した。それは父の死を契機に日本へ帰国して掴んだことでもあった。その意味で父が与えてくれたものかもしれなかった。